No.24 道道苫前小平線(道道1049号) 苫前側
三毛別羆事件跡地への道


▲写真1 ベアーロードの看板 ▲写真2 写真1の向かい側に立つ看板
▲写真3 射止橋
橋の先の建物には
「現地まであと5km」の看板がある
▲写真4 ここから砂利道
98年秋より舗装区間が1kmあまり延びていた
▲写真5 現地まで約400m ▲写真6 工事現場
▲写真7 工事現場の先 ▲写真8 現地まで約200m
▲写真9 ▲写真10 復元された建物が見えてきた
▲写真11 跡地入口 ▲写真12 跡地の駐車スペースの先に立つ、
何も映らないカーブミラー
▲写真13 さらに先へ ▲写真14 500mほど進んだところ
※これより先に進んだ様子は写真27以降
▲写真15 写真14の地点で方向転換 ▲写真16 写真15の地点付近のカーブミラー
▲写真17 来た道を戻る ▲写真18 土のうが積んである
▲写真19 跡地(赤三角)まで戻ってきた
同じ道を往復したのに記録されたルートはぐちゃぐちゃ…
正確さを誇るカロナビに何が起こったのか?
(赤い円の半径は100m相当)
▲写真20 羆の模型の口
跡地の他の画像はこちら
▲写真21 三毛別「四熊」事件跡地
(本当の跡地は赤三角の位置。
赤い円の半径は200m相当)
▲写真22 跡地前を出発(帰り道)
▲写真23 木立を抜けると、
写真6の工事現場が見えてきた
▲写真24 写真23の先
▲写真25 工事現場を通過 ▲写真26 頼りないロープ
斜面の下は川
▼以下5枚は写真14地点より先の様子(全て2002.5.26撮影)
▲写真27 しばらく行くとここで行き止まり
ここが道道終点のようだ
ゲートは施錠されていた
▲写真28 「6線沢林道」
▲写真29 ゲートの先 ▲写真30 「苫前小平線概測…調査」
▲写真31 ゲートの先から振り返る

写真1〜26は2001年6月24日撮影、写真27〜31は2002年5月26日撮影。

反対側の小平側の様子はこちら


苫前町古丹別で、国道239号線から南へ折れて道道苫前小平線へ入る。
苫前小平線という路線名ではあるが、町界をまたぐ区間は未開通となっており、現在のところ通り抜けはできない。

流雪溝が整備された道路の両側に並ぶ店々のシャッターには、かわいらしいクマのイラストが描かれている。
これはこの羆事件にちなんだもので、跡地につながるこの道路には「ベアーロード」という愛称がつけられている。

商店街を抜け、古丹別川を渡るところで東へ向きを変えると、そこからは田園地帯に入る。
このままひたすら道なりに進む。

途中、ところどころで、さっきと似たかわいらしいクマのイラスト看板が目に入る。
イラストは、民家の車庫のシャッターに描かれていたりする。

さらに行くと、左手に三渓神社がある。
ここには、羆事件殉難者の慰霊碑が建立されている。

現地まで10kmのところには、道路の両側に看板がある(写真1、2)。
南に向かって左側の建物に取り付けられている看板にはほのぼのタッチのイラスト、右側はちょっと怖そうなクマの顔が描かれている。

さらに進んで残り5km地点には「射止橋」がある。
これは事件に関連した名前のようだ(写真3)。
この橋の先に建つ建物の壁にも、ほのぼのイラストと「あと5km」の文字。

この先しばらく行くと、電柱は姿を消し、民家もなくなって、あとは道路だけが先へ延びている。

さて、これまで「跡地」と書いてきたが、実際の跡地は現在道路敷地になっており、現在の「跡地」は、そこから少し離れた、事件当時の雰囲気をよく残した場所を選んで復元したということのようである。

これからそこへ向かって進んでいく。
以前は先ほどの「射止橋」から約3km先、右側の道路よりかなり低い農地跡の中に廃屋を見送ったあと、右カーブの先で舗装が終わっていた(1998年秋)が、2001年6月に訪れた時には舗装区間が延長されていた。

98年当時、すでに2車線幅の路盤工事は終わっており、あとは舗装だけという感じにはなっていたので、その後舗装されたのだろう。
どこまで舗装されたのかと思いながら進んでいくと、舗装区間は1km以上延びていた。

舗装区間が終わると(写真4)、その先は路盤工事には未着手で、以前と同じ狭い砂利道になったが、少し行くと工事現場が見えてきた。
それとともに「三渓羆事件 現地まで約400m」の看板が、左手に現れた(写真5、6)。

行われていた工事は斜面の崩落防止工事のようで、これが完了したら、道路の改築工事に本格的に着手するのだろうか。
工事現場に敷かれた鉄板の上を通過。
右側の斜面の下は川なのだが、心細いロープが張ってあるだけだ。

工事現場を過ぎ、「現地まで約200m」の看板を見送ると(写真8)、中央に草のベルトが延びる昔ながらの砂利道になり、まもなく木立の中に入る。

右カーブを越えると、復元された建物が見えてきて、「跡地」に到着。
迫力たっぷりの巨大な羆の模型が、粗末な開拓小屋に襲いかかる姿が目に入る(写真20)。
道路の左側に現地保存史跡、右側に車2、3台分の駐車スペースと簡易型公衆トイレが置かれている。

道道が改良されるとどういうルートになるのかわからないが、改良ルートはここから木立の一塊分くらいでも離して、細い砂利道でアプローチする今の雰囲気を残してほしい気がする。
原生林に囲まれた開拓集落の惨事を今に伝える復元史跡なのだから、立派な舗装の2車線道路が真ん前にできてしまっては、その雰囲気が全くなくなってしまう。

さて、ここへ来たのはこれで3回目である。1回目は97年9月、2回目は98年9月、そして今回2001年6月。
ここに実際に来る前に人から聞いた話では、「昔の羆事件の跡地があって、それは苫前のかなり山奥で、そこで道路も行き止まりになっている。すごく不気味」というようなことだった。
初めて来た時には、薄暗く、車から降りなかったこともあってここで行き止まりだと思ったのだが、2度目に行ってみるとまだ道は先に続いていた。
路面はかなり荒れていて、自分たちの車では入らなかったが、我々のほかに来ていた、カップルの乗った青いインプレッサが奥へ入っていった。
大した度胸だが、数分後に戻ってきた。

そんなこともあり、ここまで来たからにはさらに先へ延びる道路を進んでみたい気もするのだが、このあたりの雰囲気は今でもクマがいつ出てもおかしくない感じだ。
しかもこの道路は小平へ通り抜けできないことがわかっているので、どこかで引き返さなければならない。

ところで関係ないが、カロナビの画面には一応この跡地が表示されていたものの、場所がかなりずれていて、さらに道路の全くないところで、しかも「羆」という字が間違って、三毛別「四熊」事件…と表示されていた(^^;(写真21)
まあ、ここまで細かいデータが入っていること自体が驚きだが。

ということで、にぎやかに跡地を見て回っているおばさんたちの集団を尻目に、先へ進んでみることにする。
跡地の先の道路は、以前の記憶とは違って砂利が十分に敷かれている。
ただし路肩の草は刈られていないようで伸び放題。
最初の直線を過ぎると左カーブ。
その先、道路わきに土のうが積んであったり、川沿いの結構きわどいカーブもあったりする。
カーブをいくつか過ぎて500mほど進むと、先も全然見えないし、なんだか心細くなってきた(写真14)。
ちょうど、待避所っぽいスペースがあったので、ここで引き返すことにし、とりあえず転回して(※ここで転回しないで先に進んだ様子は写真27以降)車を止め、降りてみた(写真15)。

虫の数がすごい。
うようようようよ飛んでいる。
刺す虫ではなさそうだが、あまりにも多すぎて気持ちが悪い。
車を止めたところの近くに古いカーブミラーがあったので写真を撮って、車に戻る。
ドアの開閉はできるだけすばやくやったつもりだったが、2、3匹虫が中に入ってしまった。
ナビの画面を見ると、ここからさらに500mほど先まで道路があるようだが、それにしても表示がおかしい。
記録された走行ルートが道路からかなり外れているのだ。
自車位置表示の正確さを誇るカロナビがどうしたのだろうか?
跡地まで来た道を戻ると、同じ道路を往復したのに、走行したルートの記録は道路から外れてぐちゃぐちゃ(写真19)。

とりあえずほっとして、2年半ぶりに跡地を見て回る。
この復元された開拓小屋、以前ここで一夜を明かした旅行者がいたとかいなかったとか。
もちろん電気も何もないし、クマがいつ出てもおかしくないようなところでよく一夜を過ごすことができたものだと感心してしまう。
すでに他の見学者の姿はない。
特に目新しいところがあるわけではなく、一通り見て帰ることにした。

帰り道、工事現場を過ぎ、短くなった砂利道を走って、跡地を後にしたのだった。


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